ベジタリアンになった理由
これは、環境問題でも健康志向でもない。ニヒリズムという虚無の海に流されないために、あえて自分に課した「不自由」の物語。
はじめに
この記事は、私がベジタリアンになった理由を説明しようとした試みです。ただし、誤解のないように最初に断っておきたいことがあります。
ここに書かれているのは、この記事を執筆した時点において、たまたまこのように考えていたということに過ぎません。私の考えは日によって変わりますし、自分の感覚をうまく言語化できているとも限りません。
そもそも、この選択の根底にあるのは、言葉で説明できるような論理的なものではなく、もっと感覚的で、曖昧で、不安定なものです。それでも、誰かに問われたときに何も答えられないのは不誠実だと感じ、便宜上、自分なりに言葉にする練習としてこの文章を書きました。
だから、ここに書かれていることを「確固たる信念」や「完成された思想」として読まないでください。これは、流動的で不完全な自分の内面を、その時点でなんとか掴み取ろうとした、一つのスナップショットに過ぎません。
第1章:喪失と虚無——「形式」が必要になった背景
1-1:愛犬の死と、突きつけられた「生の不条理性」
私がベジタリアンになった直接のきっかけは、2年前の愛犬の死でした。しかし、これはよくある「可哀想だから食べない」といったシンプルな話ではありません。
私は昔から、物事を論理的に、そして抽象化して考えすぎる子供でした。世の中で「正しい」とされる価値観に対しても、心のどこかで「それは人間が勝手に決めた幻想に過ぎないのではないか」という冷めた感覚を抱えていました。あらゆる価値には確固たる根拠などなく、最後には虚無に行き着く。そんなニヒリズム(虚無主義)の種が、自分の中にずっと根を張っていたのです。
しかし、そんな冷徹な論理を容赦なく引きずり戻したのが、「悲しみ」という感情でした。
愛犬が死んだとき、理屈を超えて、私はただただ悲しかった。
価値なんて主観的なもので、絶対的な正解などどこにもないはずなのに、目の前の命を失ったことへの「悲しみ」だけは、疑いようのない厳然たる事実としてそこにありました。
さらに私を苦しめたのは、自分の思考の癖でした。一つの死をきっかけに、私の思考は勝手に未来の不安へと伝染していきます。父の定年、祖父の老い、そしていつか訪れるであろう大切な人たちの不在……。まだ起きていない未来のことまでをも抽象化して捉え、眼前の「悲しみ」をあらゆるものに波及させてしまう。
「価値なんてないはずなのに、失うのはこんなに悲しい。そしてその悲しみは、未来のあらゆる場所ですでに待ち構えている」
この矛盾こそが、私にとっての不条理でした。どんなに論理で武装して「意味なんてない」と突き放そうとしても、この胸を締め付ける痛みだけは誤魔化せませんでした。
そのとき、私は思ったのです。この正体のわからない不条理な世界で、せめてこの「悲しい」という自分の直感だけは裏切りたくない。論理が通用しないのなら、せめて自分の「行動」だけでも固定して、流されていく自分の立ち位置を決めなければならないのではないか。
そうして、愛犬が旅立った次の日から、私は肉と魚を食べるのをやめました。それは論理的な結論というよりは、崩れそうな自分を繋ぎ止めるための、精一杯の抵抗だったのかもしれません。
1-2:価値への不信と、立ちすくむ心身
私はこれまで、社会が掲げる「成功」や「幸せ」の形を、心の底から信じ切れたことは一度もありませんでした。
小さな頃から、どこか冷めた自分がいたんです。世の中で良しとされる価値観に触れても、「本当にそれってそんなに大事なこと?」と疑ってしまう。でも、それを完全に否定して別の道を行くほどの確信もない。そんな「半分しか信じられない」というふわふわした感覚のまま生きてきました。
問題は、そんな中途半端な冷めた感覚を持ちながら、自分が「論理的であること」が得意だったことです。
受験もエンジニアとしての仕事も、目の前のタスクを論理で解く能力はありました。でも、そもそもその競争に「価値」を感じていないから、本気でそのシステムを信じて突き進んでいる人たちのように、自分をドライブさせることができません。
「自分はこの資本主義の競争の中で、ちゃんとやっていけるんだろうか」 「仕事に価値を見出せないまま、このまま使い潰されていくんじゃないか」
そんな不安が常に足元にありました。周囲や親の期待を内面化して、「ちゃんとしなきゃ」と思えば思うほど、本心との乖離が激しくなっていったんです。
日本にいた頃、その葛藤がついに限界を迎えました。激しい無気力に襲われ、あんなに得意だったはずの頭も働かない。体調も崩れ、文字通り「動けなく」なってしまったんです。このシステムの中でうまく立ち回れない自分への不安と、動かない体。そのどん詰まりの状況から抜け出すための、イチかバチかの選択がタイへの移住でした。
自分の得意な「論理」をどれだけ駆使しても、この先の人生に意味は見出せないし、溢れる不安や無気力を止めることもできない。その行き詰まりが、私を「既存のレール」から外れる決断へと背中を押したのでした。
1-3:深まるニヒリズムと、自分を繋ぎ止める「アンカー」
タイでの生活は、日本の社会的なプレッシャーから私を解放してくれました。体調も戻り、今は当時ほど切迫した状態ではありません。しかし、平穏な生活の中で、別の種類の「まずさ」を感じるようになりました。
それは、自分の中で年々強まっていくニヒリズム(虚無主義)の傾向です。
世界はますます不安定になっています。生成AIが急速に普及し、アメリカでは再びトランプ氏が力を持つ可能性が現実味を帯びてきた。こうした予測不能な変化を前にすると、あらゆる物事を疑い、分析してしまう私の性質は、どうしても「人生の確固たる意味なんてない」という方向へ流れていってしまいます。
一方で、親からは結婚や子供といった「一般的な期待」を向けられ続けています。自分は毎年歳を重ねていきますが、今の自分には、そうした期待に対して心の底からイエスと言えるような価値観を持ち合わせていません。
問題は、私が「親の期待に沿わない」という選択を、自分の明確な価値観に基づいてできているわけではない、ということです。
「私はこう生きるから、親の期待には応えられない」という強い意志があるわけではなく、ただ自分の中に「価値」がないために、ニヒリズムの波にさらわれ、親たちがいる場所からどんどん遠くへ流されている。そんな感覚が強いのです。
このままでは、ただ「何もない」まま、どこまでも流されていってしまう。
だからこそ、私は「アンカー(碇)」を欲しました。その中で、毎日必ず訪れる「食」という行為こそが、最も確実に自分を繋ぎ止められる領域だと気づいたのです。
たとえ「正しい」という絶対的な根拠がなくても、自分の意志で「ここを動かない」と決めた地点。それが私にとってはベジタリアンという選択でした。
何でもありの虚無に飲み込まれず、かといって誰かの期待にただ流されるのでもなく。自分がどこに立っているのかを確認するために、自分の生活の一部をあえて「不自由」に固定する。そうすることで、自分の足元をなんとか地面に繋ぎ止めておきたい。そんな内面的な必要性に突き動かされていたのだと思います。
第2章:ニヒリズムへの抗い(核心:80%)——あえて課す「不自由」
2-1:論理を突き詰めた先にある「意味の不在」
私は昔から、物事を突き詰めて考えるタイプでした。でも、論理(ロジック)というのは時として残酷なもので、突き詰めれば突き詰めるほど、最後には「根拠のなさ」に行き着いてしまいます。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」 「なぜ働かなければならないのか?」 「なぜ生き続けなければならないのか?」
これらの問いに対して、誰にとっても完璧な、客観的な正解を出すことは不可能です。論理的に考えれば、あらゆる価値観は人間が勝手に作り出した「約束事」に過ぎず、宇宙規模で見れば私の人生に一ミリの意味もない。そんな結論が、頭の片隅にいつもこびりついていました。
この「意味の不在」を理屈で理解してしまうのが、私のニヒリズムの正体です。
特に今の時代は、その感覚を強めるニュースばかりが耳に入ってきます。生成AIが急速に普及し、人間特有だと思っていた「思考」や「表現」さえもがシステマチックに代替されていく。また、以前よりも不透明さが増した世界情勢を眺めていると、論理はますます「何をやっても無駄だ」「結局は虚無だ」という方向へ私を導いていきました。
以前の私は、この「意味なんてない」というふわふわした漂流感に、ただ身を任せるしかありませんでした。でも、何も信じられない、何も正しいと思えない状態で生きていくのは、想像以上にエネルギーを消耗するし、何より精神的に大変すぎるんです。
論理をどれだけ回しても、「生きる意味」という答えは出力されない。
そんな論理の極北にたどり着いたとき、私は「理屈ではない何か」で自分を繋ぎ止める必要性を、ひしひしと感じていました。
2-2:キルケゴール的飛躍:根拠のない「正しさ」を自ら設定する
論理が「意味はない」と告げている。でも、そのままだと生きるのがあまりに大変すぎる。ここで私は、あえて論理を裏切る必要性を感じました。
かつて哲学者キルケゴールは、絶望の淵で、論理を超えて信じることを「飛躍」と呼びました。私にとってのベジタリアンも、この「飛躍」に近いものです。
「肉を食べないことが、本当に論理的に正しいのか?」と自分に問い直せば、答えはイエスでもノーでもありません。植物にも命はあるし、生態系の一部として肉を食べるのは自然だという理屈も成立します。
でも、そうやって「正解」を求めて論理のループにハマるのを、あえてやめることにしたんです。
客観的な正解がないからこそ、主観的な「飛躍」が必要。
「私は肉を食べないことを、自分にとっての正しいこととして設定する」
根拠がないことを自覚した上で、あえて自分でルールを決める。そうやって無理やりにでも「意味」を作り出さないと、流動的な世界の中で自分の立ち位置を保つことができないからです。
たとえそれが一時的なものであったとしても、「自分はこれを正しいと信じて進む」という一歩を踏み出さないと、人生という長い時間は歩いていけません。ベジタリアンという選択は、論理的に導き出された「答え」ではなく、虚無の中に自分が立ち上がるために、あえて論理を飛び越えて掴み取った「意志」なのです。
2-3:特定の宗教戒律に見る「行動による精神の律し方」の応用
この「飛躍」を日常の中で維持するために、私が参考にしたのが宗教的な「戒律」の仕組みでした。
誤解してほしくないのは、私がイスラム教やユダヤ教そのものに帰依しているわけではないということです。特定の教義を信じているというよりは、彼らが毎日5回お祈りをしたり、決まった帽子をかぶったり、特定の食べ物を禁じたりする「行為が持つ機能」に、なるほどなと思うところがありました。
彼らは単に教えを頭で信じているだけではなく、「行動を型にはめる」ことによって、日々自分自身を振り返り、自分が何者であるかを再確認する機会を強制的に作っています。
「なぜ自分は今、お祈りをしているのか?」 「なぜ自分は今、これを食べないのか?」
その問いが日常の中に組み込まれることで、漫然と流されていく時間にブレーキがかかる。特定の宗教を信じていない私にとっても、この「行動を固定することで内面を律するシステム」は、自分という存在を繋ぎ止めるための、非常に合理的なツールに見えたんです。
日本で普通に生きていたら、自分の価値観を毎日問い直す機会なんてそうそうありません。でも、食事という一日に何度も訪れる場面に行動の「縛り」を設ければ、そのたびに「自分はどう生きようとしているのか」を思い出すスイッチになります。宗教的な知恵を、自分なりの「生きるための手法」として借りてきた、という感覚に近いかもしれません。
2-4:食を縛ることで、流動的な自己を繋ぎ止める
ベジタリアンになることで、私の生活は確実に不自由になりました。お店選びには苦労するし、友達との付き合いでもこれまで以上に気を使います。
でも、その「不自由さ」こそが、私が求めていたアンカー(碇)そのものでした。
何でも自由に選べる状態は、一見幸せそうですが、私のようなニヒリズムに陥りやすい人間にとっては、どこまでも流されてしまう「底なしの海」のようなものです。そこに「肉を食べない」という物理的な制限を自分にかける。すると、食事のたびに、あるいは誰かに理由を説明するたびに、「私はなぜこれをやっているのか?」という問いが自分の中に強制的に立ち上がります。
食という、生きていく上で避けて通れない「身体的な行動」をあえて縛ること。
それによって、不安定な世界情勢や、内面化された親の期待、あるいは自分自身の虚無感に飲み込まれそうになる自分を、なんとか「今、ここ」に繋ぎ止めているんです。
ただ普通に生きていれば、自分の価値観を日々振り返る機会なんてありません。でもこの不自由さがあるおかげで、私は毎日、自分の人生の舵を自分で握っているという感覚を持つことができます。
ベジタリアニズムは、私にとっての精神的な護身術であり、流動的な自分という輪郭を保つための「日々の儀式」なのです。
第3章:外界との適切な距離(20%)——流されないための境界線
3-1:内面化された期待との付き合い方
タイでの自由な生活を選んだ今でも、私の中から「親や社会の期待」が完全に消え去ったわけではありません。むしろ、それらは私の思考の癖として深く根付いています。
これまでの私は、周囲の期待を過剰に察知し、それをあたかも自分の意志であるかのように内面化(コピー)してしまうところがありました。親が望むような安定や成功、あるいは結婚といった「一般的な幸せ」のモデル。それらを心の底から信じているわけではないのに、かといって真っ向から否定して縁を切るほどの強い動機もない。
この「半分しか信じられないけれど、無視もできない」という中途半端な状態が、私を最も疲れさせてきました。
期待をすべて飲み込んでしまえば、自分という個が消えてしまう。かといって、すべてを拒絶して孤立したいわけでもない。私が求めているのは、社会や親との「適度な関係」です。相手の期待を理解しつつも、それに自分を明け渡さないための絶妙な距離感。そのバランスを探るためのツールとして、ベジタリアンという選択が機能し始めました。
ベジタリアンであることは、会食などの具体的な場面で「私はあなたたちとは違うルールで動いている」という事実を、波風を立てすぎずに、しかし明確に示すことができます。
これは、親の期待を100%受け入れるのでもなく、かといって100%拒絶するのでもない、「自分だけの領域(聖域)」を日常生活の中に確保する試みです。自分の内側に、誰にもコピーされない「食べない」という確固たる不自由を持つことで、外から流れ込んでくる期待に対して、適切なフィルターをかけられるようになったと感じています。
3-2:自己主張をせざるを得ない状況の創出
私はもともと、自分の意見を強く押し出したり、人と対立したりするのが得意なタイプではありません。論理的に相手の言い分が理解できてしまう分、つい「まあ、相手がそう言うなら……」と、自分の輪郭を曖昧にして相手に合わせてしまうことがよくありました。
しかし、ベジタリアンという選択は、そんな私の性質に「強制的なブレーキ」をかけてくれます。
例えば、誰かと食事に行くとき。これまでは相手の行きたい店に合わせ、相手が勧めるものを食べていれば、波風は立ちませんでした。でも今は、「私は肉を食べないので、この店は行けません」「これは食べられません」と言わざるを得ません。
これは私にとって、一種の自己拘束——自分を逃げ場のない状況に置くことです。
「食べない」という事実を提示することは、単なる好き嫌いの表明ではなく、自分の境界線を具体的に引く行為です。これを繰り返すことで、曖昧だった自分の輪郭が、他者との摩擦を通じて少しずつ硬く、はっきりとしたものになっていく感覚を得ています。
自分の内側にある「ニヒリズムへのアンカー」を維持するためには、どうしても外界からの侵食を防ぐ壁が必要です。あえて「自己主張せざるを得ない不自由な状況」に自分を追い込むことで、私は自分の領域を守り、他者の期待に流されすぎる自分を食い止めているのです。
3-3:誤解やカテゴリー化を引き受ける
ベジタリアンを公言すると、周囲からはよく「意識が高いんだね」とか「環境問題に熱心なの?」、あるいは「健康に気を使っているんだ」といった、既存のカテゴリーに当てはめた目で見られます。時には、少し面倒な人だと思われることもあるかもしれません。
以前の私なら、そうやって誤解されたり、変な目で見られたりすることを極端に避けていたと思います。他人の頭の中にある「私のイメージ」をコントロールしようとして、無意識に相手の期待する色に自分を染めていたからです。
でも今は、そういった誤解やレッテルを、むしろ積極的に引き受けるようにしています。
「変わった人だ」と思われることは、裏を返せば、相手が私に対して持っていた「自分の思い通りになるはずだ」という期待や投影を、そこで遮断できているということです。相手が勝手に作り上げた「私」という虚像と、現実の私の間に、一本の明確な線が引かれる。その摩擦こそが、私の輪郭を保護してくれます。
もちろん、すべての人に自分の真意(ニヒリズムへのアンカーであることなど)を理解してもらう必要はありません。むしろ、誤解されたまま「一線を引かれた状態」でいることの方が、私にとっては心地よいのです。
カテゴリー化される不自由さをあえて受け入れることで、内面的な自由を守る。変な目で見られることを「自分と外界を隔てるバリア」として利用する。そうすることで、私は誰の期待にも属さない、自分だけの静かな場所を確保できているのだと感じています。
第4章:葛藤し続けるという誠実さ——執着と自由の間で
4-1:仏教的視点から見た「えり好み(執着)」という苦しみ
ここで少し視点を変えてみると、私がやっている「ベジタリアンという選択」は、仏教的な価値観から見れば、実は一つの「執着」にあたります。
仏教では、物事に「好き・嫌い」や「正しい・間違い」という境界線を引くこと自体を、苦しみを生む原因(執着)と考えます。本来、世界はありのままに存在しており、そこに意味を付けているのは人間の心に過ぎません。「肉は食べない」と頑なにこだわることは、見方を変えれば「強いえり好み」をしていることになり、執着から離れて自由になるという教えとは逆行しているようにも見えます。
論理的に考えれば、「何でも執着せずに受け入れる」ことの方が、完成された自由に近いのかもしれません。
しかし、今の私にとっては、その「執着しない自由」こそが、最も危険なものでした。何にもこだわらず、何でも受け入れるということは、私のような人間にとっては、再びあの「底なしのニヒリズムの海」に飛び込むことと同じだからです。
こだわりを捨てて「空」になる。それは理想的ですが、今の私はまだその境地に立てるほど強くはありません。だからこそ、あえて「執着(ベジタリアニズムという型)」を掴み取ることで、自分という個体をこの世に繋ぎ止めています。それでも、あえて執着を選ぶこと。その不完全さを自覚することこそが、私にとっての誠実さなのです。
4-2:これが「絶対的な正解」ではないという自覚の保持
ベジタリアンという「型」を自分に課していますが、私はこれが「万人に共通する正解」だとは考えていません。そもそも、人間の根本にある価値観というものは、数学における「公理」のようなもので、それ自体が正しいかどうかを論理的に判定できる性質のものではないと思っているからです。
「なぜ肉を食べないのか」という問いに対し、論理をいくら積み上げても、結局は自分がどの「公理(前提)」を採用するかという問題に行き着いてしまいます。だからこそ、私は自分の選択を「唯一無二の真理」として絶対視しないように努めています。
私にとっての菜食は、あくまで自分のバランスを保つための「個人的な杭」に過ぎません。
- 価値観は数学の公理のようなもので、それ自体に客観的な妥当性を求めること自体に無理がある。
- 植物の命を奪う矛盾など、論理的に突き詰めれば解消できない問いが常に残っている。
- 感情の面でも、愛犬を失った当時の強烈な悲しみは、時間の経過とともに少しずつ薄れてきてしまっている。
特に、あの時感じた確かな悲しみが薄らいでいくことには、一種の危機感さえ覚えています。忘れてしまった方が楽になれるのは事実ですし、それでいいのかもしれないという思いもあります。しかし、自分の核にあったはずの感情が消えていくことは、自分が再び「何でもありの虚無」に飲み込まれていくようで怖いのです。
だからこそ、あえて「型」を維持し続けます。
「これが絶対だ」と盲信するのではなく、自分の価値観の根拠のなさや、薄れゆく感情という不完全さを自覚したまま、それでも「今の自分はこのルールで生きる」と引き受け続けること。その薄氷の上に立つような自覚こそが、思考停止した狂信や、すべてを無意味とするニヒリズムから私を遠ざけてくれるのだと感じています。
4-3:揺らぎ、迷い続けること自体を価値観の再確認とする
ベジタリアンを続けていると、ふとした瞬間に「本当にこれでいいのか?」という揺らぎが必ずやってきます。友人との食事で不便を感じたり、あるいは自分の論理が「そんなことに意味はない」と囁きかけてきたり。
でも、私はその「揺らぎ」や「迷い」を、決してネガティブなものだとは捉えていません。むしろ、その葛藤こそが、私が今この価値観を「自分の意志で選び直している」ことになるからです。
もし何の迷いもなく、機械的に肉を拒絶できているとしたら、それは単なる習慣、あるいは思考停止した「プログラム」に過ぎません。それだと、誰かに決められたルールに従っているのと変わらなくなってしまいます。
- 「意味がない」という論理的な冷笑。
- 「悲しい」という個人的な記憶。
これらが自分の中で衝突し、揺らぎが生じるたびに、私は立ち止まります。そして、その衝突の火花の中で、「それでも私は、今日この選択をする」と再確認する。このプロセスこそが、ニヒリズムという、すべてを「平坦」にしてしまう波に対する、最も有効な抵抗になります。
迷うということは、そこにまだ「自分」がいるということです。
葛藤を消し去るのではなく、葛藤し続けること。その揺らぎそのものを自分の価値観の再確認の儀式として受け入れることで、私はニヒリズムの海に溶け込むことなく、自分の輪郭を保ち続けることができています。
第5章:結びに——私にとっての「祈り」としての菜食
不透明な時代に、自分の形を保ち、誠実に生きるための儀式
結局のところ、私がベジタリアンという選択に託したのは、大きな社会変革でも、高潔な自己犠牲でもありません。それは、この不透明で、あらゆる意味が剥ぎ取られていく時代の中で、自分という人間の「形」を保つための、きわめて個人的で切実な「儀式」です。
生成AIが答えを出し、世界情勢が目まぐるしく変わり、親や社会からの期待がノイズのように流れ込んでくる。そんな中で、何もしなければ私の心はすぐにニヒリズムの海に溶け出し、誰のものでもない空虚な存在になってしまいます。
論理的には意味がないかもしれない。 誰かに正解だと言われるわけでもない。 それでも、食事という日常の小さな局面で「私はこれを選ばない」と決めること。
その不自由な一線が、私にとっては世界と自分を切り分ける境界線となり、同時に、自分をこの場所に繋ぎ止めるためのアンカー(碇)となっています。
愛犬を失ったときのあの言葉にならない悲しみや、日本で立ちすくんでいた頃の無気力な感覚。それらを忘却せず、かといってそれらに支配されるのでもなく、一つの「型」として自分の生活に編み込むこと。それが、私がこの世界に対して示せる、最低限の誠実さなのだと思っています。
これから先も、私は迷い続け、揺らぎ続けるでしょう。自分の選択に絶対の自信を持つこともないかもしれません。けれど、その葛藤こそが私が生きている証であり、自分で打った「杭」の感触です。
誰のためでもない、自分自身を取り戻すための不自由な規律。
私にとってのベジタリアニズムは、この虚無な世界を、それでも自分の足で歩き続けるための「静かな祈り」なのです。